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蛭子能収のうきうきギャンブラー人生

ギャンブル史

 私は今67才。10月21日で68才になる。長崎の小さな港町で子供の頃を過ごした。小学生の頃は駄菓子屋で5円のくじ物を買うのが大好きだった。お菓子に興味はなく、ただ、くじを引いて5円以上の品を貰うのが好きだった。くじを引いてる内に、ある事を発見した。くじはほとんど当たりがわかるようになっていたのだ。真っ白い紙のくじには、よく見ると小さな赤い点がつけてあったり、絵柄の場合、その絵の一部が他と違っていたりする。
 くじを選んで買っていたら店のおばさんに「選ばずに引いて」と言われた。

 隣の兄さんは造船の会社に勤めていて休みの時は近所のパチンコ店に通っていた。パチンコ店にはスマートボール台が置いてあり兄さんはこれが得意だった。必ず勝つので店側としても対策を考え、兄さんが来ると「これで勘弁してください」といい、兄さんの手に300円渡した。つまり兄さんはパチンコ店に行くと、玄関で300円を手にして帰ってくるのだ。300円といえば当時の一日分の日当ぐらいだった。うらやましかった…。

 私もパチンコができる18才までわくわくしながら待ったが、待ちきれずにパチンコのおもちゃを作った。ベニヤ板と釘、ビー玉を揃え近所の友だちにビー玉1個で遊ばせた。つまり子供のパチンコ店だ。
 高校になって本格的なパチンコ台を作ろうとパチンコ台を縦に置き、パチンコ玉が穴に入ると5個ほどの玉が下の穴から出てくるように作った。
 18才で高校を卒業すると、誰とも会話をせず、教室を出てバスに乗った。そして、ここと決めていたパチンコ店に入った。初のパチンコ店入りである。胸がワクワクする。50円で玉を買い、台の前に来てハンドルを打った。計100円負けてパチンコ店を出た。
 「やった-!! 初のパチンコ打ち、負けたけど嬉しかった。第一の大人のギャンブル、これ達成!」と感激。

 それから2年。20才の誕生日を過ぎた日、友だち2人を誘って長崎の大村ボート場へ行った。私は規則をきちんと守る人間なのだ。パチンコは高校卒業して18才になるまで遊ぶことはできない。ボートレースは学生を卒業、なお20才の誕生日を過ぎてからでないとできないのだ。だから私は誕生日を過ぎた3日後の日曜日にボート場へ行った。
 1日12レース。毎レース100円ずつ買って全レース外して1200円負けた。
 でも面白かった。これで私はすべてのギャンブルができる年齢になった。誰からの束縛もなく、いろんなギャンブルができる、誰にも遠慮なしで自由にギャンブルが楽しめると……しかし違ってた。

 麻雀という面白いゲームがある。ほとんどの人はいくらかの金を賭ける。しかし、これは金を賭けてはいけないらしい。ほとんどの人は賭けているけど、違法なのだ。真面目な男はこれではマージャンができないではないかと思う。悲しい。何とかすべきだ!!

 

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著者略歴

  1. 蛭子能収

    1947年長崎生まれ。漫画家、俳優。看板店、ちりがみ交換、ダスキン配達などの職業を経て33歳で漫画家に。その後TVにも出演。現在「蛭子コレクション」全21冊のうち7冊発売中。ギャンブル(特に競艇)大好き。カレーライス、ラーメンなど大好き。魚介類や納豆は苦手。現在、タレント、俳優、漫画家、エッセイストと多ジャンルで活躍中。

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