MENU

蛭子能収のうきうきギャンブラー人生

初めてのパチンコ

 最近私は65才になった。65年間の人生で何をしてきたか。まず本を読まなかった。あらゆる小説を読もうとしたが5ページ位読んだところで一日かかる。読み終えるのに一体何日かかるんだとゾーッとした。小説を映画化すると大体2時間で見終わる。これが良いと思った。絵を描くのは好きだった。精密画が好きな先生の時には一生懸命、小さな絵を描いた。抽象画が好きな先生にはわざと太陽を2つ描いた。絵を描くのが好きだったというのは違うかもしれない。先生に褒めてもらいたかったのだろう。褒められるのが好きだった。

 近所にパチンコ店があった。いやパチンコではなくスマートボール店だった。私の家の隣に住む会社勤めの兄さんがいた。その人はスマートボールが上手で店へ行くと店長さんから「帰ってくれ」と言われた。そのかわり一台終了させた分のお金を貰っていた。お兄さんは店に行くだけでお金を貰えるので小遣いに困らなかった。私はそれを羨ましいと思った。その頃、皆貧乏だった。お金が欲しいのはやまやまだ。私もパチンコ店へ行きたかった。そのお兄さんを尊敬した。

 小学生ではパチンコ店に入れないので、せめてパチンコのおもちゃを買ってくれと母にねだった。しかし買ってくれなかった。それで私は造船所へ行って木くずを拾い釘を買いパチンコ台を作った。そこにビー玉を転がせて遊んだ。それを遊びの場へ持ってゆき、ビー玉一個貰って他の子供に遊ばせた。スマートボール形式のやつで穴がタテヨコ4つずつあり、タテヨコナナメ一列並んだらトントン。一列も並ばなければビー玉を一個没収。2列並んだら私が相手にビー玉を2個返した。いわゆるパチンコ店の経営者になったようなものだ。
 小、中、高と進んだが勉強は苦手だった。英語は特に苦手。私は外国人と喋ることなんて絶対ないから無駄な授業としか思ってなかった。それより高校を卒業したら一番にパチンコへ行くと決めていた。

 卒業式の日、卒業証書を貰うと他の友人と喋ることなく繁華街のパチンコ店へ直行した。多分この日、全国民の卒業式の後、一番でパチンコ店に入ったのは私ではないかと思っている。
「人間は自由に物を考え、その考えを実行できた時に喜びを感じる」。これで生きている意味があるのだと私は考えている。
 その日、50円分の玉を持ち、パチンコ台に流した。そしてバネを打ち、玉がカラン、コロンと音を立てて盤面の釘と釘の間を落ちてゆく。ついにこの日が来た。私の手でパチンコをしているんだ。その日は百円負けたが喜びでいっぱいだった。


 それから6年後、なぜか東京にいた私は「パチンコ」という漫画を描き、ガロという雑誌で入選した。貧乏一直線だった私の人生が少しずつ上昇していったのだった。

 

バックナンバー

著者略歴

  1. 蛭子能収

    1947年長崎生まれ。漫画家、俳優。看板店、ちりがみ交換、ダスキン配達などの職業を経て33歳で漫画家に。その後TVにも出演。現在「蛭子コレクション」全21冊のうち7冊発売中。ギャンブル(特に競艇)大好き。カレーライス、ラーメンなど大好き。魚介類や納豆は苦手。現在、タレント、俳優、漫画家、エッセイストと多ジャンルで活躍中。

閉じる