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蛭子能収のうきうきギャンブラー人生

ウキウキギャンブラー

 私は小さい頃からギャンブルが大好きで、そのような人生を歩んできた気がする。
 小学生の頃は駄菓子屋で買うものといったらほとんどが、くじ引きのついたものだった。
 クジで当たって10円で50円くらいのものを当てて、貰うことが好きだったのだ。その物が欲しくて、現物を直接買うってことはほとんどなかったと言ってよい。
 パチンコ店には齢が若すぎて通えないので、板と釘を拾ってきて、ビー玉をパチンコ玉の代わりにしてパチンコ店のようなものを経営していた。
 高校を卒業したその日、友達にも目もくれずパチンコ店に直行した。初めてのパチンコ。ワクワクを通り越して、夢のようだった。そして1000円ほど負けた。
 以後、看板店で働いてた時は、ただただ仕事が終わったらパチンコをして家に帰るという繰り返しの生活だった。
 その頃のパチンコ店には、女性の従業員が必ず居て、パチンコ台にトラブルが発生するとその女性達がやってきて、トラブルを調整してくれた。こういう生身の女性と話せることもパチンコ店の魅力の一つだった。

 20才になる私の誕生日にも計画があった。
 ボートレースのできる年齢、それは「学生ではなく、20才を過ぎた大人の人」とある。
 つまり18才で労働者になった私は20才の誕生日を迎えて、やっとボートレースができることになったのだ。
 近所の友達を誘って4人で初めてのボートレースで遊んだ。長崎県民の私たちが行ったレース場は大村ボートレース場だった。この大村ボートレース場は競艇発祥の地だということだった。つまり日本で一番最初にできたボートレース場だったのだ。
 すごい!! 長崎県民すごいぞ!!と思ったものだ。その日、初めての競艇場で全12レース1000円の一本買い。12レースで12000円負けた…つまり12回やって1回も当たらなかったのである。
 12000円負けはしたがゲームとしては大変面白く、それ以後自分一人で通うことになった。以降、競艇の趣味は1回だって途絶えてはいないのだ。

 かなり負けてはいるが、これらの遊びは私の生きがいとなって、働く気もおきている。夢は働かずに、こういうギャンブルで勝って生活費を賄うこと。
 そんな人生だと面白いな~と思うのだが。中には「俺はギャンブルで勝って食っている」という人もいるんだろうな~。働かないで好きなギャンブルだけで食っていける!! すごいことだ……。
 こんなことばかり書いている私をバカな人だと思う人もいるかと思うが、ああ、もしかしたら私はバカかもしれない…と思う日は確かにある。それはギャンブルに負けた日なのだが……(笑)。

 

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著者略歴

  1. 蛭子能収

    1947年長崎生まれ。漫画家、俳優。看板店、ちりがみ交換、ダスキン配達などの職業を経て33歳で漫画家に。その後TVにも出演。現在「蛭子コレクション」全21冊のうち7冊発売中。ギャンブル(特に競艇)大好き。カレーライス、ラーメンなど大好き。魚介類や納豆は苦手。現在、タレント、俳優、漫画家、エッセイストと多ジャンルで活躍中。

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