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蛭子能収のうきうきギャンブラー人生

絵の可能性

 私の家の隣には私より一才年下の男の子がいて、私と気が合いよく一緒に遊んでいた。子供の頃は海と山で遊び商店でお菓子のクジを引いていた。私もその子も商店でクジを引くのが大好きだった。
 その分ライバルという意識もあり、彼が商店のクジで大当りしてでっかい景品をもらうと少しばかり悔しい気持ちになったものである。
 近所の子供とは遊んだけれど身体を動かすスポーツみたいな遊びは私は嫌いだった。キャッチボールはよくしたが、このキャッチボールでさえ嫌いだった。ボールとバットを持って運動場へ行くのだが、行きはみんなで分担して道具を持っていくが帰りは一番出来の悪かった人が全部持たされた。その一番出来の悪い人が私だった。
 「スポーツなんてこの世から消えて無くなればいいのに」とさえ思ったものである。

 高校では美術部に入った。美術部はすごく平和だった。絵を描く人は大人しい人が多い。黙々と自分の絵を仕上げていく。その絵がたとえ評価されなくてもキャンバスに自由に絵を描くのは楽しかった。今までの人生の中で高校時代が一番楽しかったと思っている。それは子供の頃、夏の夜に小さなベランダみたいな場所で寝っころがって星を見ながら過ごした頃の楽しさと同じであった。美術部には不良っぽい人もいなかったしケンカもなかった。
 美術部の人達は、絵を描く人が多かったが、皆それぞれ自分で自分の絵を自分の筆で仕上げていく行程が楽しかった。キャンパスに絵を描く人達の性格とはこんなにやさしいのかと思うほどだった。
 今まで過ごした人生の中には大体いやな奴の存在があったが、美術部にはいやな存在の人はいなかった。それで私は毎日毎日授業が終わった後に美術部の部室へ行くのが楽しみでしょうがなかった。
 それと同時に絵を描くのがどんどん好きになっていった。いやな奴が存在しないのもあり、私にとっては本当に理想のクラブ活動だった。

 ある時、こんなことがあった。美術部員の一人が「もう俺描けない、今回の絵はもうあきらめるよ」と言った。作品を見るとグチャグチャでなんだか子供が書いて途中であきらめた感じになっていた。その時、別の美術部員が「ダメだよ、最後まで描かなきゃ。俺も手伝うからさ」と言いながら手を加えた。他の美術部員も参加して何人もの筆が入り絵はグチャグチャで完成。「グチャグチャだけどまあ、いいさ。とにかく絵を〆切日までに仕上げるってことが大切なんだから」と言いあった。
 なんと、そのグチャグチャの絵が全国の大会で一位になってポスターにもなった。全国に配られ各地の電柱などに貼られたのである。


 私は美術のこういうところが好きなのだ。どんな絵にも可能性がある。

 

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著者略歴

  1. 蛭子能収

    1947年長崎生まれ。漫画家、俳優。看板店、ちりがみ交換、ダスキン配達などの職業を経て33歳で漫画家に。その後TVにも出演。現在「蛭子コレクション」全21冊のうち7冊発売中。ギャンブル(特に競艇)大好き。カレーライス、ラーメンなど大好き。魚介類や納豆は苦手。現在、タレント、俳優、漫画家、エッセイストと多ジャンルで活躍中。

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