とんこ
ウチのオフクロの田舎は、埼玉県大宮市(現さいたま市)だった。
で、オフクロの母親、つまり、オレの婆ちゃんは、大宮公園という割と大きな公園の中で焼きそばやおでんを提供する飲食店、それを営業する権利を持っていた。小学生の頃のオレは、学校が休みになると、その婆ちゃんの家に1人で泊まりに行き、また、中学や高校生の時には時々その大宮公園内の飲食店でアルバイトをやらしてもらっていたのである。そして、その節目節目に連れていってもらったのが、大宮駅の東口にあった創業昭和29年の「とんこ」というトンカツ屋だった。
とにかく旨かった……。トンカツはサクサク。そして、その店の豚汁というのが、また旨くて、何を隠そうオレは豚汁作りの名人なのだが、それの大元になったのが、この「とんこ」の豚汁だったのだ。オレが大好きだったとんこのトンカツ定食。その当時の大宮の旨かったもののことを思い出しても、婆ちゃんが大宮公園の飲食店で作っていた焼きそばと、このトンカツ定食しか思い浮かばなかった。そう、それだけ「とんこ」は、オレの心の内壁に強烈なインパクトを残していたのである。
今から3年前。オレは、東京郊外にある立川市から埼玉県富士見市というところに引っ越してきた。ちなみに、何でこんな埼玉県の田舎町を引っ越し先に選んだのかと言うと、そこには塚ポンという友達がやっている串カツ居酒屋があり、前々から頻繁にその店に通っていたオレは、当時は離婚や幼馴染を亡くした疲れもあり、とにかく静かに暮らしたいということで富士見市に越してきたのだ。
が、この富士見市というところはグルメの空白地帯と言われてるらしく、確かに市内にはグルメ店が殆ど無かった。が、同じ埼玉県の大宮まではそんなに離れてないので、オレは祈るような気持ちでネットで「とんこ」がまだ営業しているかどうかを調べてみた。
残念ながら「とんこ」は無くなっていた……。ま、それでも塚ポンが店に来る常連たちから、少し離れた場所にある美味しいとされている飲食店のことを聞き、それをオレが確かめに行くと、なるほど、メチャメチャ旨いというわけではないが、それなりには美味しい飲食店に出会えることもあった。そんな店の1軒にウチから車で30~40分で行ける、川越市にある「中村屋総本山」という煮干しラーメンの店があった。ここの濃厚煮干しラーメンは相当美味しくて、オレは10日に1度ぐらいの頻度で通い始めた。
と、それから数ヵ月後に、またまた塚ポン情報で、その「中村屋総本山」の兄弟店の「三輪」というラーメン屋がウチから車で15分ぐらいのさいたま市桜区にあるという。で、その翌日にオレは早くもその「三輪」に行って濃厚煮干しラーメンを食べたのだが、確かに兄弟店ということもあって、その味は「中村屋総本山」にも引けを取らなかった。よって、これからオレは濃厚煮干しラーメンが食べたくなったら、ウチからより近いこの「三輪」に来ようと思ったのである。そして、家に帰るため元来た道を戻っていると、来る時には全く気がつかなかったが、途中に「吉草」といううどん屋があり、その広い駐車場に沢山の車が駐車してあるのが見えた。
(あっ!)
オレは思い出していた。塚ポンが「三輪」のことを教えてくれた時に、奴も「三輪」からの帰り道に結構な人気のうどん屋がその近くにあることを知り、近々そのうどん屋にも行ってみようと思うって言ってたのだ。
(しかし、立地条件もそんなに良くないのに、あんなに客を集めてるって凄いよなぁ……。何うどんを出してるんだろ?)
自分のマンションに帰ったオレは、早速スマホで、その「吉草」のことを調べてみた。と、その店のうどんは武蔵野うどんでも讃岐うどんでもないらしいが、食べログ上の点数は3.43と割と高い点数がついていた。が、そんなことより、オレは同ページに載っていた「吉草」に対する口コミ記事の1つを見た途端、思わず居間にある椅子から立ち上がっていた。
うどん屋なのに土・日限定でトンカツも出すということが書いてあり、しかも、そのトンカツがあの「とんこ」の味を継承していると言うのだ!!
オレは予想もしてなかった展開に目を白黒させながらも、さらにその口コミ記事を読み込んでいくと次のようなこともわかった。
「吉草」という蕎麦やうどんを出す店は、さいたま市の中に計4店舗あり、その中で「とんこ」のトンカツを出す店は、さっきオレが見た五関店と、より大宮駅に近い東新井店の2店舗。五関店で「とんこ」のトンカツが食べられるのは土・日のみだが、東新井店の方は平日でも食べられる。その「とんこ」のトンカツの中でも代名詞とされているのが“俵型ひれかつ”で、ロースも人気があるが、やっぱり「とんこ」のトンカツと言えば、このヒレのトンカツらしいのだ。
翌日の金曜の昼。オレは「吉草」五関店に来ていた。おいおい、何で平日はトンカツを出さない五関店に来てんだよ?と思う奴もいるとは思うが、「とんこ」のトンカツが出ない平日でも、あそこまで 客を集める「吉草」のうどんをとにかく食べてみたかったのである。
① ②
①「吉草」五関店で人気の「ごせき汁うどんセット」(1100円)。うどんの量は350gか500g、どちらでも好きな量を選べる。
②つけ汁の中に入っているトロットロに煮込まれた豚のあばら肉は、ソーキそばの中の肉と一緒で、甘辛くてバランスが絶妙
上の写真が「吉草」五関店で人気の「ごせき汁うどんセット」(1100円)。まぁ、このセットをこの値段で食べられるので、確かに店が混むのはわかる。そして、その更に翌日の土曜日。オレは遂に40年以上ぶりに「とんこ」のトンカツ定食を食べるために、再び「吉草」五関店を訪れた。勿論、頼んだのは「とんこ」名物! 俵型ひれかつの「ひれかつ御膳」(1600円)だった。
③ ④
③遂に対面した「ひれかつ御膳」。肉の量は200g。ご飯の大盛りは無料。
④豚汁は、うん! やっぱり旨い。
うん、「とんこ」の「ひれかつ御膳」は旨かった。特にこの豚汁を一口飲んだ途端、オレの脳と舌の表面に何とも言えない懐かしさが蘇ってきて、もう少しで泣きそうになった。が、確かにヒレカツの方も美味しかったのだが、その懐かしさは全く感じず、それを食べ終わるまでオレは終始昔食べたトンカツの味を頭の中で捜し続けていた。
週が明けた月曜日。あの「ひれかつ御膳」を食べた時の違和感の正体がようやくわかった。小・中・高校生の時のオレは、トンカツと言えば脂がシッカリと乗ったロースカツを食べていたのである。つまり、オレは「とんこ」のヒレカツは1度も食べたことがなかったのだ。
それからのオレは、一日千秋の思いで週末になるのを待っていたのだが、その途中の木曜日にある事に気がついたのだ。もう1軒の「吉草」東新井は、平日でも「とんこ」のトンカツを出すのである。つまり、わざわざ五関店がトンカツを作る土・日を待たなくても、早い話が平日の今日行けばいいのだ。ということで、その木曜日の午前中にオレは大宮駅に割と近いという、その東新井店に車で向かった。が、五関店と違い、東新井店に向かう道はムチャクチャ混んでて、到着するまでに1時間以上かかってしまった。が、東新井店の外壁には、ちゃんと「特選ロースかつ御膳」(1650円)という文字が。よしっ。
⑤ ⑥
⑤よしっ、これは間違いないと思ったが……。
⑥東新井店の定食で唯一トンカツが付いていた 「とん吉御膳」(1700円)。
ところが、席に座ってメニューを見たところ、どこにも「特選ロースかつ御膳」の文字が無いのだ。で、そのことをお茶を持ってきた店員に尋ねたところ、ナント、今は盆入りの時期なので、特別メニューで営業していると言うのである。で、喉元まで出かかった「余計なことをしてんじゃねえよっ!!」という言葉をグッと呑み込み、とりあえず1種類だけトンカツが付いている定食があったのでソレを頼んだのだが、それには豚汁も付いておらず、肝心のロースかつも何だか急遽出された代打のかつのような代物だったので、オレはその盆入り時期のセットをチャッチャと食べ、黙って店を後にした。
で、1日空けた2日後の土曜日。オレは万全の体制を整えて五関店の席に座り、「ロースかつ御膳」(1600円)を注文した。
⑦ ⑧
⑦ようやく出会えた「とんこ」のロースかつ御膳。ひれかつ定食とは値段は同じだが、こっちは肉の量が250gと50gも多い。
⑧ロースかつの断面。確かにブ厚くて迫力はあるが……。
まず1度味わってはいるが、この定食に付いている豚汁はやっぱり旨い。2度、3度と口にしているうちに、40年以上前の、あの「とんこ」の豚汁の味が舌を通してオレの頭の中にムクムクと蘇ってきた。
そして、肝心のロースかつは、肉の厚さは納得の厚さで、程良くカラッと揚がっていた。が、何度そのトンカツをかじっても「とんこ」の記憶は蘇らず、そして、三切れ目を食べる頃には、肉の硬さが目立ってきた。
いや、予想はしていたが無理もなかった。高田馬場にある「なりくら」「ひなた」「とん太」、蒲田にある「檍(あおき)」、横浜市日吉にある「和栗」、埼玉県本庄市にある「かつ善」、大阪府八尾市にある「マンジェ」……。「とんこ」に行かなくなってから還暦になるまでの40年以上の間に、オレは美味しいトンカツを食べ過ぎていた。
「吉草」五関店のトンカツを揚げる技術には何の問題もない。トンカツの超一流店、そこと違うのは肉そのものの質だ。オレを唸らせたトンカツ用の肉には、千葉県で飼育されているUSP林ポークがあり、使う肉が特に決まってない店でも、その店の料理長が市場に出る豚肉を実際に目にすると、ブランドには関係なく、その中でも美味しい肉がわかるというケースが殆どだった。
が、それでもこの「吉草」五関店で俵型のひれかつ、「とんこ」を確実に思い出させる豚汁、それに大盛り無料の御飯が付いて1600円で食べられる「ひれかつ御膳」は充分に魅力的だ。よって、これからはオレは、月に1~2回は、この「吉草」五関店に通うつもりだ。
オレは令和版の「とんこ」をようやく見つけた。
『ともだち~めんどくさい奴らとのこと~』
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『そっちのゲッツじゃないって!』
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