MENU

ゲッツ板谷のスケルトン忠臣蔵

12年ぶりの小説『ともだち~めんどくさい奴らとのこと~』(徳間書店刊)を遂に出版!!

 2012年にオレは『幻冬舎』という出版社から「ズタボロ」という小説を出した。 
 そして、それから12年後に出す小説が今回の『ともだち』である。てか、前作から12年もかかって次作を出すこと自体がプロの物書きとしては失格なのだが、実は今回の小説の原稿は2年前には一応書き上がっていたのだ。 
 で、その時に約束をしていた出版社に連絡を取ったのだが、オレが最も親しくしていた編集者は書籍の部からは離れていて、オレとは1冊だけ組んで本を出したことのある者が窓口になることになった。が、彼が言うには「今、新人賞の作品を凄いペースで読まなきゃならないので、それが済むまで数カ月待ってて下さい」ということだった。オレは正直愕然とした。新人待ちかい!と思った。が、文句を言うわけにもいかなかった。本来なら、その小説は4年前ぐらいには仕上げるという約束だったのだ。つまり、それだけ相手を待たせたにもかかわらず、自分は僅か数カ月も待てないというのは勝手過ぎると思ったのだ。 

 原稿を送って待つこと3カ月。相手の編集者からの連絡は一切無し。イライラしてても仕方がないので連絡を取ってみたところ「すいませんが、あと1~2カ月待ってくれますか。そうすれば読む時間が出てくると思います」とのこと。てか、オレはその出版社からは単行本、文庫本合わせて20冊以上も出しているのに、それを新人賞の選考のために下手すりゃ5カ月も待たなくちゃいけないのか……。 
 が、オレは言われた通り2カ月待ち、更にもう2カ月待った。だが、相手の編集者からの連絡は一切無かった。 
 オレはその出版社の、一緒に本を15冊ぐらい作った編集者に連絡を取ろうと思った。が、何か惨めな気持ちになると思って止めた。 
 色々な事情で完成までに10年以上かかった小説、一瞬それが無駄になるような気がした。こんな時、出版界や同業者に友達や知り合いが沢山いる奴だったら、その者たちに相談をすればいいが、オレは同じ業界の人間とはプライベートでつるむのは嫌だった。そういう者たちと酒場などに出掛け、仕事のことや同業者なんかのことを話すのに全く魅力を感じなかった。だから普段遊ぶのは、自分とは違う職業に就いてる奴ばかりだった。 

 オレは考えた末、ある人物に連絡した。それは新保さんというフリーの編集者兼作家で、もちろんオレは彼ともプライベートでは殆ど付き合いは無かったが、以前「週刊SPA!」という雑誌で計15年間も編集者としてオレの担当をやってくれた同い歳の人だった。ちなみに、新保さんは灘高、東大をストレートで卒業した恐ろしく頭のキレる人で、実はオレの処女小説『ワルボロ』も事前に彼に読んでもらって、色々なアドバイスをもらっていたのだ。ただ、新保さんとは15年近くも一緒に仕事をしてないし、とにかく多忙な人だったので、オレが書いた今度の小説を書籍化するのを手伝ってくれるかどうかは全くわからなかった。が、気合いを入れて連絡を取ってみたら、6月のメチャメチャ暑い日に都内の喫茶店で会ってくれることになった。改めて事情を話し、友達に打ってもらった原稿を新保さんに渡した。彼は黙ってオレの話を聞いてくれた後、今は自分も忙しいので、1カ月半ほど原稿を読むのに時間を下さいと言ってきた。そして、1カ月半後のまたしても猛暑の日に、再び例の喫茶店で新保さんに会うと、彼はオレのプリントした原稿に赤字の直しを入れたものを渡してきた。 この時点で、オレは泣きそうになった。その原稿にはホントに沢山の赤が入っていた。新保さんは、自分自身の原稿書きや編集作業の他にも、自分の事務所の引越し作業なんかもしている最中なのに、このオレの大量の原稿の直しを何日もかけてやってくれていたのだ。しかも、タダで。 
 オレは、その赤が入った箇所を直し、再び例の喫茶店でその原稿を新保さんに渡した。3~4日後。新保さんからLINEが入り「今回の板谷さんの原稿を本にするのを正式に手伝います。ただ、もう1回時間をかけて読んだところ、まだ前半部が重いので、ここはカットした方がいいのでは?という部分に印を入れたものを郵便で送るので見て下さい」とのことだった。オレは「了解です!」という言葉を送りながら昔、この新保さんとの仕事を最後までやり切って心から良かったと思った。 

 実は、「週刊SPA!」での連載は結構大変な仕事で、オレはインタビューものや取材ものの企画をやっていたことが多かったので、取材が1日、原稿書き2日、校正やら何やらで1日と、つまり、1週間のうち4日も持っていかれるのだ。と同時に、当時のオレは月刊誌や隔週誌の連載も何本も持っていて、それと並行して紀行本を書くために海外に取材に行ってたりもしてたので、もうヘロヘロで「SPA!」の仕事は休みたかったのだ。が、新保さんと一緒に仕事をしていると勉強になるので、とにかく最後の連載が終わるまで夢中でついていったのだ。で、今回ここまで新保さんが力になってくれるのは、きっとあの頃のことがあったからだと思った。 

 新保さんから届いた原稿の「カットした方がいいのでは?」という部分は、確かにその通りだった。いや、他の編集者に、こう何度も削ってくれと言われたら「えっ、そこも切っちゃうの!!」とオレは反発すると思うのだ。その文章を書いた者にとって、あちこち削ってくれと言われるのは勿論いい気持ちではない。自分が一度外に出した文章というのは、少し大げさに言わせてもらえれば自分の子供のようなものなのだ。が、オレは新保さんとの15年にも渡る仕事を通して、彼の文章に対するバランス感覚の良さは熟知していて、連載していた時もここをバッサリ削っちゃって欲しいと言われて(えーっ!)と思っても、あとでその部分を読むと、ホントに新保さんの言う通りにして良かったと思うことが殆どだった。だからオレは、変に迷わずに自分の文章の前半部を思い切ってスパスパとカットしていった。 

 1カ月後。直しの原稿を新保さん宅に送ったら「じゃあ、この原稿を本にしてくれる出版社を当たってみますんで、が、相手も板谷さんのこの長編小説をちゃんと読んで判断するんで、更に数カ月は待ってもらうことになると思います」と言われた。 
 で、今年の7月。新保さんから「出版社、徳間書店に決まりました。担当者は板谷さんも知ってる加々見さんです」というLINEが届いた。 
(えっ、オレも知ってる? いや、オレ、その人誰だかわからないんですけど……)

 そして、猛暑日の7月末日。目黒の徳間書店で加々見さんと会ったのだが、ヤバい、まるっきり覚えてない……。で、その後の説明でわかったのだが、オレは昔「アサヒ芸能」という週刊誌で連載をやっていたのだが、その時に担当のヘルプに何回かついてくれてたのが加々見さんだったのだ。が、その頃のオレは、とにかく自分のキャパ越えのペースで日々仕事をしていたため、数回会っただけの人のことは余程顔にドでかいホクロがあるとか、そういう特徴が無い限りは覚えてなかったのだ。
 オレは改めてジーンときていた。昔、散々世話になった新保さんに加えて、その徳間書店のアサヒ芸能でやっていた連載は、その最中にオレは脳出血になり、結局その連載は立ち消えてしまったのだが、今回そんなオレが書いた原稿の書籍化に同編集部にいた加々見さんも力を貸してくれるというのだ。いや、ホントに有難い。 
 で、オレと新保さんと加々見さんの3人で話し合った結果、やはり前半部を更にカットした方がいいということで、オレはその通りにし、そして、ようやくこの本の出版と相成ったのである。 

 ちなみに、今回もまた表紙のイラストや冒頭に入る人物紹介のイラストはサイバラのねーさんが描いてくれ、帯文も毎回素晴しい言葉を書いてくれる吉本ばななさん、そして、オレが「週刊SPA!」でやっていた連載からファンになってくれた棚橋弘至さん(新日本プロレス代表取締役社長兼レスラー)というツートップが寄せてくれていて、ホントに何とお礼を言ったらいいかわからない。
 

 

 つーことで、長い間お待たせしました。『ともだち~めんどくさい奴らとのこと~』、ガッツリと読んで下さい。 

 

 

『ともだち~めんどくさい奴らとのこと~』

amazon

 

-----------------------------------------------------

『そっちのゲッツじゃないって!』

◇ガイドワークスオンラインショップ
(限定特典:西原理恵子先生表紙イラストのクリアファイル付)
『そっちのゲッツじゃないって!』

◇Amazon
https://www.amazon.co.jp/dp/4865356339

バックナンバー

著者略歴

  1. 板谷宏一

    1964年東京生まれ。10代の頃は暴走族やヤクザの予備軍として大忙し。その後、紆余曲折を経てフリーライターに。著書は「板谷バカ三代」「ワルボロ」「妄想シャーマンタンク」など多数。2006年に脳出血を患うも、その後、奇跡的に復帰。現在の趣味は、飼い犬を時々泣きながら怒ることと、女の鼻の穴を舐め ること。近親者には「あの脳出血の時に死ねばよかったのに」とよく言われます。

関連書籍

閉じる