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ゲッツ板谷のスケルトン忠臣蔵

遺言(後編)

 林の遺言となった蕎麦屋「ふじおか」へ行った後、オレは久々に迷っていた。
 「ふじおか」で偶然出会った、青梅市で蕎麦屋をやっているという男性。そこに行こうか行くまいか。“パプアニューギニア料理も出している”って……。ちなみに、その時にニューギニア料理ってどんなものかとザッと尋ねたら、イモやバナナの実をバナナの葉っぱで包んだようなものとの答え。オレは正直、そんなものは食べたくない。が、彼は確かに自分も蕎麦を打ってて少しオカしくなってた、と言っていたのだ。そう、林と似ているのである。

  カィ――ン!!

 「ふじおか」の駐車場で、オレがその男性に「何っていう名の蕎麦屋さんなんですか?」と尋ねた時、「パプアニューギニア料理も出してるので“ニウギニ”っていう名前なんですけどね」という答えが返ってきた次の瞬間、オレの頭の中に金属バットが硬球を真芯で捕らえたような音が響いた。その音がオレの頭の中で再び反響していた。
 今までの人生の中でも、オレは、その音を何度か聞いたことがあるが、そういう奴らとは不思議にも割と仲がよくなっているのだ。どうする……。いや、止めとくか………。
 ネットで探すと「ニウギニ」はアッという間に見つかった。ナント、この店はお寺の境内にあるという。日本の寺の中にパプアニューギニア料理の店……。ますます訳がわからない。が、そのページに電話番号が掲載されていたので思い切って電話すると、相手は「ふじおか」で1回しか会ってないのにオレのことを覚えてくれていて、少し話してるうちに1月中旬の週末に「ニウギニ」に行く約束をした。

 そして、「ふじおか」に行った2カ月半後。オレは地元の後輩を助手席に乗せ、青梅街道を進んでいた。20分もすると道は丁字路に突き当たり、カーナビに従ってソコを左折して200メートルほど進むと右手に「ニウギニ」があるという大きな寺が現れた。
「ど、どこにあるんスかねぇ、その店は?」
 駐車場で車から降り、キョロキョロしながら辺りを見回す後輩。が、時刻はまだ午後の4時過ぎだというのに、かなり暗くなっている周囲の景色。
「おっと、この階段を上がったところみたいだぜ」
 道の脇にあるコンクリート製の壁面、そこに全長60センチほどの『ニウギニ、この上↑』という看板があるのを発見し、近くにあった石の階段を登り始めるオレ。階段は40段近くあり、ようやく登り切ると正面に明りの点いた寺の本堂が現れた。そして、その向かって右脇から伸びる真っ暗な細道を進んでいくと小さな民家のような建物が4軒あり、その1番奥が「ニウギニ」だったのである。しかし、ココも一応は東京だとはいえ、何という不気味なところなのだろう。
 玄関の戸を恐る恐る開け、「すいませぇ~ん、板谷ですけど……」という声を上げてみた。すると3~4秒してから「あ、はぁ~い!」という明るい声が家の中から聞こえ、間もなくして「ふじおか」で会った男性が出てきたのだが、
「あごっ!?」
 オレの口から自然とそんな言葉が出ていた。この前は無かったが、男性の鼻を真横に貫通している棒……。そう、まさにアフリカの一部の部族がやっているような、あのスタイルの顔が目の前に出てきたのである。元々濃い顔の人だとは思ったが、鼻に30センチぐらいの棒が通ってるその顔は、何といったらいいのか、とにかく日本人には見えなかった。が……、
「こんな遠いところまでわざわざすみません。汚いところですが、さぁ、上がって下さい。どうぞ!」
 そんな丁寧な言葉を吐いたかと思うと、オレたちを8畳ぐらいの部屋に案内する男性。そして……、

「ごわわっ!?」
 その部屋に入り、広い出窓のようなところに積み上げられたモノが目に入ってきた途端、またしても自然にそんな声を発してしまうオレ。そこに飾っていたモノの中でも最も目を惹かれたのは“マッドメン”という泥を固めて作った悪霊?の面で、その数は5~6個だったが、その被りもの型のお面の口のところには本物の豚の歯が埋め込まれてて、とにかくハンパなく気味が悪かった。しかも、室内の各壁面には多分パプアニューギニア人だと思われる半裸の人々、それと一緒に同じく半裸になっている「ニウギニ」の店長さんの写真が何枚も飾ってあった。
「こ、これらの写真って、あの……何をしてるところの写真なんスかね?」
 その部屋に3つあるテーブル、その1つに腰掛けたオレたちにメニューを持ってきた店長に、とりあえずジャブでも打つような心境で尋ねているオレがいた。
「ああ、これらの写真は主に“ゴロカショー”っていう、パプアニューギニアで開催される1000人以上、約80の部族が集まって3日間踊り続けるお祭りのシーンを写したもので、自分も毎年行ってるんですよ、ええ」
「あ、そ、そうなんスか………」

 その後、店長さんとの会話で判明したことは、まず彼は“アポさん”と呼ばれていて、年齢はオレの6つ下とのこと。今はたまたま不在だが何年も前に結婚していて、奥さんもちゃんといるらしい。
「し、しかし、その鼻に通してる棒って、よっ……よく入れましたねぇ。ホントに鼻の中にある肉片をプスッと貫通してるんでしょ?」
「あっ……ええ」
 オレからの質問に相変わらず明るく答えてくれるアポさん。さらに……、
「今からもう10年ぐらい前に初めてハプアニューギニアに旅行に行きましてね。その時に1発で気に入っちゃったんですよ、あの国の人たちのことが。で、あまりに好きになり過ぎて、自分もある部族に家族の一員として入れてもらおうと思って、じゃあ、どうしたらいいか考えたら、もう鼻に棒を通して自分は半端な気持ちじゃないってことをアピールしようと思ったんですよ」
「な、なるほど」
「で、そういう穴を開けてくれるところがタイにあるからソコに行って、やってもらったんです。それでスグにパプアニューギニアの、自分が最も気に入ってるある部族長のところに行って、どうか自分もこの部族に加えて欲しいって頼んだら、それは全然いいけどウチの部族はそんな鼻に棒を通してる奴なんて1人もいないよ、って言われちゃいまして」
「えっ……か、確認しなかったんですかぁ!?」
「ええ、ゴロカショーでは棒を通してる人が結構いたんで、てっきりその部族も……」
「ぶぅわはははははははははははははっ!! じゃあ、鼻に棒を通す必要なんて……ぶぅわははははははははははははははっ!!」
「そうなんですよぉ~。でも、もう勢いで開けちゃったんで、もうこれはこれでいくしかないかなって……あはははははははははっ!!」

 その後、暫く笑いが止まらないオレたち。で、それもようやく収まってきて、ふとテーブルの脇を見ると、そこにはパプアニューギニア関連の本が何冊か置かれていたのだが、その中に唯一パプアニューギニアに1ミリも関係ないリリー・フランキーの文庫本「美女と野球」というコラム集が混ざっていたのである。
「アポさんはリリーさんが好きなんスか? オレは一応、彼とは面識はあるんですけど……」
「いや、別にファンじゃないんですけど、そのコラム本の中にボクのことが少しかかれてまして」
「ええっ!!」
「いや、ボクは以前は金粉を体に塗って、3メートルぐらいの火を吹くっていう大道芸人をやってまして」
「ええっ!!」
「それで、あるお祭りに呼ばれて出演したんですけど、その時の司会者をたまたまリリーさんがやってたみたいなんですよ」
 で、アポさんに教えられるまま、その本の中味を見てみると、おい、1番最初のコラムにいきなりアポさんのことが書いてあるじゃんかよっ!
 しかし、何なんだ、このアポさんという人は……。まだ、この「ニウギニ」に来てから10分ぐらいしか経ってないのに、オレは驚愕の声を何回上げてんだよっ!?
「あ、板谷さん。このお店ってカレーも出すんですね」
 メニューを見ながら、不意にそんなことを言ってくる正面に座ってる後輩。
「えっ、カレー? ……あ、ホントだ」
「いや、恥ずかしいんですけど、ボクは蕎麦に負けないくらいカレーも大好きで、自己流で研究しつつ、数年前からカシミールカレーっていうのも出してるんですよ」
「カ、カシミールカレー!?」
 自分でも驚くほど大きい声を出していた。
「あ、あの、カシミールカレーって言ったら、濃い焦げ茶色をした、あの辛いイ、インドカレーですよねっ?」
「ええ」
「いや、実は自分もカシミールカレーが超好きで、25年以上も前から群馬県の前橋市にある『マムタージ』っていうインドカレー屋で、そのカシミールカレーを2~3ヶ月に1回の割合で食ってるんスけどねっ。で、以前、オレは紀行本を書く仕事の取材でインドに行った時、そのカシミール地方にあるカレーを徹底的に食べて、『マムタージ』より美味しいカシミールカレーを絶対発見してやろうと思ったんスけど、その時期はカシミール地方に隣接しているパキスタンとインドが戦争一歩手前状態で、旅行者はカシミール地方には入れなかったんですよっ。だから、今度インドに行くことがあったら……」

「あの……」
 オレの言葉を遠慮気味に遮るアポさん。
「インドにはカシミールカレーっていうのは無いみたいなんですよね」
「えっ? ………えええっ!! ウ、ウソでしょ!?」
「ボクの友だちの中にはインドに割と頻繁に行く人たちが何人かいるんですけど、彼らもカシミールカレーが大好きなんですけどね。口を揃えて言うんですよ、カシミール地方に行っても、あの焦げ茶色をした辛いカレーはどこにも無いって」
「マ、マジっスか、それ………………」
 オレの耳に、それまで積み上げてきたインドカレーに対する自信、それがガラガラと音をたてて崩壊するのが聞こえていた。まさか、そんなことが………。
「じ、じゃあ、カシミールカレーってどこの国の人が作ったんですかっ?」
「驚くかもしれませんが、日本人だろうと言われてます」
「ええっ!!」
「銀座と上野に『デリー』っていうカレー屋さんがあって、多分ソコがルーツじゃないかと……。あのカレーのルーの焦げ茶色は、カラメルで出してるみたいなんですよね」

 オレの視界が興奮とショックで震えていた。
 まさか、オレが死ぬほど大好きなカシミールカレーを生み出したのが、インドのカシミール地方ではなくて、この日本だったなんて……。いや、オレは何もアポさんの言うことを100%信用して震えているわけではないのだ。
 オレが初めてカシミールカレーというものを食べたのが、実はその上野のデリーだったのだ。忘れもしない、今からもう40年近く前のオレが高校2年の時に上野の方に住んでいる友だちに連れられて、そのデリーを訪れたのだ。そして、オレはそこでカシミールカレーという初めて聞くカレーを一口食べた瞬間、全身から汗が吹き出し、さらに2~3口食べたところ、いきなり横っ腹に差し込みが走り、気がつくと当時はそのデリーの左隅に小さな和室があり、そこで目を覚ましたのである。
 そう、今でこそ大抵の辛いモノは食べられるなんて大した気でいるオレも、実はまだ辛いものにあまり免疫が無かった高校生の時にカレーを食べて気絶してしまったのだ。そして、そのカレーがカシミールカレーだったのである。
 考えてみれば、そのカレー気絶事件から6~7年経った頃、オレは群馬の前橋に実家のある仕事の相棒に連れられて、現在も2~3カ月に1度の割合で通っているカレー屋「マムタージ(当時は近くにある同系列のニューデリーに行ってたんだけどね)」で同じカシミールカレーを食べて雷に打たれたのだ。
 現在の日本でもカシミールカレーという種類は、一般的にはカレーの中では誰もが知るカレーではない。もし、カシミールカレーがインドのカシミール地方で生まれ、それが日本に入ってきたならば早い話が、現在の日本は辛いモノが好きな奴も昔から比べれば増えているため、もっとカシミールカレーはメジャーになっているはずなのだ。なのにそうじゃないってことは、その元祖は50~60年前の日本だということも充分考えられるのだ。
 しかし、オレは何て恥ずかしい物書きなんだ。今から20年前に紀行本を書くためにインドに行き、カシミール地方が準戦闘下にあったため、その地域の名物だと思っていたカシミールカレーが食べられずにガッカリした挙句、その紀行本に終わりに“次回こそカシミールカレーを食べるために、またインドに行くぞ~~!!”とか思いっきり書いちゃってるのである……。

 その後、オレと後輩は蕎麦とカシミールカレーを1人前ずつ注文。で、まずは蕎麦が出てきたのだが、いや、これが自分で蕎麦の実を碾いて打ってるということもあり本格的な味で、しかもアポさんは胡桃のつけダレも出してくれ、それに蕎麦をつけて食べると、また相当に美味しかった。そして、カシミールカレーを食べていた後輩にそのカレーを一口食べさせてもらうと、うん、確かに前橋のカシミールカレーに通じる味がして、前橋のカシミールカレーを100点とするならば、アポさんが作ったカレーには厳しく見積もっても78点はあげられる感じだった。
 しかし、何なんだ。まだ1ミリもパプアニューギニア料理を味わってないのに、蕎麦とカシミールカレーのこの充実ぶりは。しかも、アポさんは、この守備範囲の広い店を1人でやっているのである……。

 それからオレとアポさんは更に小1時間ほど雑談し、そろそろ帰ろうと思ったのだが、これだけの時間を取らせてオレたちは蕎麦1000円、カレー1000円の合計たったの2000円しか使っていなかったので、最後にメニューの裏側に載っていたニューギニア産の1杯500円だというコーヒーを2杯頼むことにした。
「うわっ、何だ、コレ!? ハンパなくウメ―――!!!」
 そのコーヒーを一口飲んだ瞬間、またしても驚くオレ。いや、そのブルーマウンテンだというコーヒーが冗談抜きで驚異的に旨いのだ。いや、もっと具体的にどれだけ美味しいかと言うと、さっき食べた蕎麦やカレーが一瞬のうちに霞んでしまい、もちろんオレは今までにそんな美味しいコーヒーは1度も飲んだことがなく、気がつくと後輩に次のような質問をしていた。
「なぁ、お前ってコーヒー好き?」
「ええ、かなり好きですけど……」
「じゃあ、今飲んでるコーヒーって、ベストいくつに入る?」
「いや……冗談抜きで、今まで飲んできたコーヒーの中でも1番美味しいと思います」
「だ、だろっ!?」
 ちなみに、アポさんの話では、彼は今でも最低年一はパプアニューギニアに行くらしいのだが、帰りに20キロ分の土産を手荷物で持ってこれるので、いつも現地にあるコーヒー工場から、このブルーマウンテン(ホントはニューギニアで採れたコーヒーは、この呼び方が出来ないらしいのだが)をキッチリ20キロ背負って帰ってくるらしいのだ。にしても、まぁ、アポさんがコーヒー豆をケチらずに作ってくれることもあるんだろうが、パプアニューギニアで採れたコーヒー豆って尋常な旨さじゃないぞ、おい!!

 それからというもの、オレは家から車を飛ばして40~50分ぐらいの「ニウギニ」に毎回違う友達を連れて、ちょこちょこ行くようになった。で、何回目かに初めてニウギニ定食という、パプアニューギニア料理を注文してみたが、まぁ、不味くはないが正直言えば2回は食べたくなかった。が、もちろん「ニウギニ」は蕎麦やコーヒーを食べるだけでも充分通う価値があり、それに加えてアポさんはホントに人柄もいいし、また、話がとても面白いのだ。
 たとえば、この前も笑ったのだが、アポさんにとって何が虚しいって、1日中こうして店にいても客が1人も来ないことも珍しくはなく、なのに鼻に棒を刺したままボーっとしてると時折泣きたくなってくるという。また、「ニウギニ」は時々テレビで紹介されることもあるらしいのだが、どういう訳か放映された1週間以内は客が全く来なくなるという。数カ月前も某局の『激レアさんを連れてきた』という番組に出たらしいのだが、その時も避けられるように殆ど客が来なかったらしい(笑)。
 しかし、すっかり忘れていたが、こうしてアポさんと会うようになったのも、元々は林の遺言のお蔭である。同じく蕎麦作りに悩んだ2人だったが、一方はその適当な着地点が見つからずに結局は体を壊して死んでしまい、もう一方はたまたま蕎麦以外にも興味があるものがあったお蔭で何とかやっているのである。
 ちなみに、今回のこの計3回にわたる原稿でオレは蕎麦のことを色々書いてきたが正直、蕎麦通になんかには全くなりたくない。蕎麦なんかにハマっているより、この世の中には他に美味しいものがまだまだ沢山あるのだ。そして、そっちの方を追究してった方がより多くの驚きに出会えるし、楽しい一生を過ごせる。とオレは思うのだ。


 つーことで、林。お前の遺言で面白い旅が出来たし、自分がまだいかに小さいかも思い知ったよ。……ありがとな。礼を言っとくよ。

 

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著者略歴

  1. 板谷宏一

    1964年東京生まれ。10代の頃は暴走族やヤクザの予備軍として大忙し。その後、紆余曲折を経てフリーライターに。著書は「板谷バカ三代」「ワルボロ」「妄想シャーマンタンク」など多数。2006年に脳出血を患うも、その後、奇跡的に復帰。現在の趣味は、飼い犬を時々泣きながら怒ることと、女の鼻の穴を舐め ること。近親者には「あの脳出血の時に死ねばよかったのに」とよく言われます。

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