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ゲッツ板谷のスケルトン忠臣蔵

オレの先生って誰だっけ?

 物書きになって今年で36年目。まさかこんなに続くとは思ってもみなかった。 
 元々、物書きになんてなろうと思ってなかったから、何の勉強もしてこなかった。適当にグレていたオレは、美術の専門学校を出ても就職する気にもならず、家の中で1年以上も引きこもっていた。するとある日、予備校で同級生だった漫画家の西原理恵子が来て、彼女に『パチンコ必勝ガイド』という雑誌を出している高田馬場にある白夜書房という出版社に連れていかれ、翌日からライターになったというわけだ。 
 
 が、勿論、自分でも長く続くとは思っておらず、第一パチンコのことなど遊び方は知っていたけど、ただそれだけで、オレは一般のパチンコ好きと同じレベルだった。なので、そんな熱心なパチンカーが読む雑誌に何を書いたらいいのかもわからなかったし、オレの中では物書きなんていうインテリの職業につく者は、一流大学卒か、もしくはその一流大学を中退してないとなれないというか、なる資格が無いと思っていた。ところが、当時の『パチンコ必勝ガイド』の編集部というのは、そんな中途半端なオレでもとにかく居心地が良く、とてもプロとは言えないような文章ばかりを書いていたが、そんなクラブ活動みたいなノリで仕事をしていたオレでも、何とかギリギリ生活出来るギャラが毎月入ってきたのである。

 ライターになって3年目のことだった。パチンコの新雑誌に大型連載を持つことになり、毎月色々な都道府県に仕事仲間4人と取材に行き、優良パチンコ屋を探し回った。で、この連載が意表をついて、その雑誌の人気ページとなり、そうなってくるとオレにも初めて本物の欲が出てきた。そう、物書きとしてさらに人気が欲しくなったのだ。が、基本的にはオレには武器が無い。で、考えた末、とにかく読者の爆笑を取る文章を書こうと思ったのだ。で、何で笑いを取ればいいか考えたら、とにかくこの連載の白夜書房の担当編集者たちがバカばっかりで、彼らのその途方もないバカさ加減をよりわかりやすく、自分は被害者だという立場で面白おかしく書いたのである。 
 それとこだわったのが比喩表現。昼食を取るために入った中華屋、そこで働いていた異様に落ち着きのないオバちゃんに対する比喩には“その薄汚い食堂には、野グソをしていた吉永小百合が、その姿を真後ろから修学旅行中の中学生たちにモロに目撃され、パニックになったような顔のオバちゃんが働いていて”とか、とにかく力ずくで比喩を作った。 
 も1つオマケにキャプションにも力を入れた。キャプションというのは、ページに入ってくる写真、その下の説明文である。例えば、その取材でパチンコ屋の中でメチャメチャ玉を出している女の子がカメラを見てピースサインをしてる写真を撮ったら、その写真の下には「パチンコ屋で大連チャン中のMちゃん。一体ドル箱を何箱積むつもりなのか⁉」てなキャプションが普通は入る。が、オレは「この女のコの顔の部分を指先で擦ってごらん。バナナのニオイがするよぉ~ん」とか、まともに写真の説明をするのを一切止めて、とにかく笑いを取れるキャプションを書き続けた。 
 で、その連載は4年も続き、つまり、その4年間でオレは“笑い”という武器を手に入れる勉強が出来たのだ。しかも、先生にもつかず。 

 その後、オレはイラストを描く相方と共に紀行本を書くことになった。イラスト担当の相方とオレのところに、前出の西原理恵子が突然パチンコとは全く関係ない、ベトナムの紀行本を書く仕事を持ってきてくれたのである。 
 いや、これには正直焦った。マニア的な雑誌で文章を書くわけではなく、まさしく一般的な書籍を出している出版社から、しかも、まるまる1冊の単行本を出すことになったのだ。で、とにかく無我夢中で取材国のベトナムに取材に行き、それを面白おかしく書こうとしたが、とにかく200ページぐらいの本を1人で1冊書き下ろすというのは、特に新人に近い自分には地獄のように大変なことで、また締切まで時間が無く、勢いだけで書くしかなかったのである。結局、そのベトナムの紀行本は全然売れなかった。そして、オレは相方ともコンビを解消し、仕事の量も4分の1に減ってしまった。 
 あ~あ、オレもこのあたりが限界かなぁ~と思った。やっぱし1冊の本を書き下ろす物書きというのは大変なのだと思った。で、その頃は、また親戚のヤクザ者の叔父がバリバリ活躍していたので、オレも10代の頃の不良に戻って、そこからヤクザの道を目指そうかと思っていたら、再び西原から今度はタイの紀行本を書きなよ、という話がきた。しかも、その取材にサイバラが結婚した鴨志田という、戦場カメラマンをやっていた男を同行させてくれることになったのである。で、蓋を開けてみると、鴨志田(以下、カモ)はハンパないアル中だったが、彼はタイに住んでいたので、それまでにない濃い取材をすることが出来て、日本に戻ってから本文を3ヵ月ぐらいで書き下ろすということになった。 
 さぁ、これが物書きとしての最後の勝負だと思った。これが売れなかったら、もう西原に迷惑をかけるのは嫌だったので、物書きになるのをスッパリ辞めようと決めていた。 
 で、オレはその旅行をなるだけ面白く、また、1ページに最低でも2カ所はクスッと笑える比喩表現や写真下のキャプションを入れるつもりで、本文を書く以外にも毎晩頭をひねった。今回も締切にそんなに余裕がなく、オレは1日12時間ぐらいのペースで文章を書きまくり、まぁ、それは色々なプレッシャーとも闘いながら書いているので苦しかったが、その反面、とてつもない面白さも感じた。そう、戦場カメラマンをやっていたカモが現場でオレに投げてくる様々な試練、それに向き合うしかなかったオレは、本気で戸惑い、困り、怒り、時にはカモとマジでケンカした。で、そんなことを思い出しながら文章を書いていると、遅まきながら自分もようやく本当の取材が出来たような気がして嬉しくなったのだ。また、タイに住んでいたカモが現地のこと、例えば、タイで山火事がやたら多いのは、暑い気候の中で木の枝と枝が風に煽られて擦り合い、それで火がついてしまうこともあるからだとか深い知識も教えてくれ、それもすべてその「タイ怪人紀行」という本の中にブチ込んだ。
 
 その結果、その「タイ怪人紀行」はそこそこの販売結果を叩き出し、数ヵ月もしないうちに2~3社の他の出版社からも仕事の依頼が来るようになった。それからは紀行本は勿論、コラム、エッセイ、企画モノ、小説など色々なものに挑戦させてもらった。 
 が、今思えば、あの白夜書房での4年間の連載、そして、その後の紀行本4冊を書いてる時の、その計8年間ぐらいが物書きとして本物の訓練をしたような気がする。で、少し前にその訓練は誰に教えられたものではなく、自分自身で切磋琢磨したと書いた。が、1人先生がいたとすれば、それは酒の飲み過ぎが元で42歳の若さで死んでしまったカモ、奴が実はそうなのではないかと最近思うようになった。そして、オレを白夜書房に連れて行き、紀行本の連載の話も振ってくれ、その上、良くも悪くも自分の本心を攻撃的にすべて吐き出してくるカモを紹介してくれたサイバラ、彼女には一生足を向けて寝られないと思うのだ。 


 そう、つまり、オレの先生はカモであり、西原でもあるのだ。……ふふふふ、強力だろ?

 

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著者略歴

  1. 板谷宏一

    1964年東京生まれ。10代の頃は暴走族やヤクザの予備軍として大忙し。その後、紆余曲折を経てフリーライターに。著書は「板谷バカ三代」「ワルボロ」「妄想シャーマンタンク」など多数。2006年に脳出血を患うも、その後、奇跡的に復帰。現在の趣味は、飼い犬を時々泣きながら怒ることと、女の鼻の穴を舐め ること。近親者には「あの脳出血の時に死ねばよかったのに」とよく言われます。

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