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ゲッツ板谷のスケルトン忠臣蔵

親父が不器用に教えてくれたこと

 さて、前回はなぜオレがマザコンになったのか?ってことを書いて、全国の母親大好きな男たちの涙を誘ったわけなんだけどさ。 
 よく考えてみると、オレは親父のことも嫌いだったわけじゃなくてね。ただ、あまりにもマザコンが強力過ぎて、親父のことが頭の中に入ってくることが殆ど無かったんだと思うんスよ。いや、ものごころがつくまで、ウチの親父に対してもオレは酷いことをしててね。超真面目だった中学2年の途中までは、オレは親父 ーいや、ここからはケンちゃんと書こう― 彼を怒らせると、板谷家も昔は鉄拳制裁の家だったので、オフクロには竹の1メートルぐらいある物差しでバンバン叩かれたのに対して、ケンちゃんにはよく蹴っ飛ばされてましたよ。
 ところが、中学の途中からグレ始めると、オフクロやケンちゃんに度々逆らうようになり、高校に入るとケンちゃんとは取っ組み合いのケンカをした挙句、ビール瓶で頭を叩いちゃったりしていたのよ、これが。で、それからオレはケンちゃんのことが全く怖くなくなり、タバコや酒は勿論のこと、ズべ公と遊んだりシンナーを吸ったり、暴走族に入ったりしててね。でも、今考えるとケンちゃんの凄いところは、そんなオレと間近で生活しながらも、勤務していた自動車会社に対して42年間無遅刻無欠勤、しかも、有給も1日も使わない記録の更新中で、特に暗い性格になることも全くなく、月に何度かは必ず大酒を飲んでハンパなく酔っ払って家に帰ってきてさ。で、その中でも特に酷く酔っ払った時は、突然ノコギリでで家の大黒柱を切り出して、オフクロが「あんたっ、何をやってんだい⁉」と叫ぶと「るせえっ、棚を作るんらよっ、棚を!!」との叫び出し、が、そのままブッ倒れて翌朝ハンパない寝小便をするというのがパターンだったのよ。

 そんな仲が良くなかったオレとケンちゃんの仲が更に悪くなったのは、オレが25歳の時でね。ご存知の通り、漫画家のサイバラからフリーライターの職を紹介され、少し得意になっていたオレがまだ全然文章も書けなかったのにもかかわらず、これからオレは小説を書いて生きていくと宣言した時だった。
「テメーみてーなバカが、文章を書いて飯なんか食えるわけねえんだろうがっ。バカも休み休み言え」
 居間のソファーで文章について語り出したオレに、ケンちゃんのそんな一言が飛んできた。 悔しかった。ハンパな悔しさじゃなかった。でも、確かにそう言われると、オレも心の中では全く勉強もしていない文章を書くことで金を稼ぐことなんて無理だと思っていた。でも、ケンちゃんの言ったことを認めたくはなかった。だから取っ組み合いのケンカになり、いつものようにそんなオレ達の間にオフクロや妹が入って必死で止めててね。

 で、それから7年後。オレも遅まきながら自分のコラム本を出せるようになり、その中に入る何枚かの扉写真を撮っていると、必ずケンちゃんが頼みもしないのに勝手に入ってきて、自ら面白モデルになったりしてさ。最初の内は、オレはそんなケンちゃんの神経を疑った。だって、自分の息子に対して「テメーみてーなバカが、文章を書いて飯なんか食えるわけねえだろうがっ」と言ったのに、その息子が自分の著作本の中に入る各扉写真を撮っている時に、当時既に60を過ぎていたいいオッサンが、ブルース・リーや「明日のジョー」に出てく丹下段平の衣装を身に着けて喜んで写真に収まっているのだ。まぁ、元々ケンちゃんは調子 コキのところもあるとは思っていたが、オレはこの時から実はその調子コキのレベルが普通じゃないことに遅まきながら気がついてね。で、それからの約10年の間、ケンちゃんは撮影だけでなく、例えばオレが映画に出ることになったら、彼もその現場についてきて普通に共演することになったり、また、本のサイン会にも当り前のように付いてきたこともあって、その時はケンちゃんも読者達が買ってくれた本にサインをしていたのである。そして、その後の六本木での打ち上げ会で案の定飲み過ぎて、六本木交差点のド真ん中でションベンを漏らすという大失態も演じててさ。
 ま、それ以前にケンちゃんはウチの母屋を火事で全焼させたり、会社を定年退職する前後、酒を浴びるほど飲んで車を運転し、人身事故は起こさなかったものの、途中の道で車をを一発で廃車にする大事故を起こしてね。が、その後の警察官立ち合いの現場検証で、たまたまその担当をした警官がケンちゃんと同じく、その年に定年を迎える人だったらしくてね。奇跡的に飲酒運転ではなく、早なる事故として処理してもらってさ。

 が、そんなド派手なケンちゃん祭りも、ウチのオフクロが肺がんで死去したと同時に終わってね。自分の最愛の女房が死んだ途端、ケンちゃんの調子コキはピタリとその影を潜めちゃってさ。と同時に糖尿病なのに隠れて白米やら揚げ餅を大量に摂取するようになり、度々低血糖症状を起こして、が、救急車がウチに着く数分前に必ずその低血糖が治まり、車に乗る乗らないで救急隊員とモメることもしばしば。そして、オフクロが死んで3年後に今度は重い脳梗塞を患い、その後、アッという間に車椅子生活を送るようになっちゃってね。さらに、脳梗塞の後遺症により唇も思うように動かなくなって何を言ってるのかが殆どわからなくなり、車椅子なのでウロチョロ動くことも出来ず、オマケに嚥下障害により食べ物が自由に飲み込めなくなり、大好きだった吉野家の牛丼も食べられなくなっちゃってさ。
 そんなケンちゃんを見ていると、この人はもう生きてても仕方ないな、と思ってね。が、そんな時に老人ホームの園長をやっていたオフクロの置き土産で、ケンちゃんはその老人ホームに入所出来ることになってさ。ところが、それから8カ月も経たないうちに入院した立川の病院、そこで息を引き取ることになっちゃってね。それが2014年9月4日。享年78。体重は僅か39キロだったよ……。
 葬式の時、オレは喪主としての挨拶をしてる時に1度だけ泣いてさ。が、それからはオフクロの時とは違って、ケンちゃんのことはあまり思い出さなくなってね。
 2度目に泣いたのは、1度目に泣いた確か半年後ぐらいでさ。その日、オレは築地に買い物に行っていて、ケンちゃんが好きな団子を売ってる店があったので、その店で団子を2~3パック 買ってね。そして、お金を払ってお釣りと商品を受け取った時、そこで初めて(あっ、ケンちゃんって死んじゃってんじゃん!)って気づいたのである。で、その時に涙が止めどもなく流れてきちゃってさ。

 今、オレは自分の息子と2人で住んでいるが、息子にはあんまり好かれていない。そう、オレがまた自分の著作本を出す前のオレとケンちゃんみたいな状態なのだ。あの時、オレはどうしてそんなにケンちゃんが好きじゃないと言うか、ハッキリ言ってあんまり興味が無かったのかと言えば、それはケンちゃんも自分には大して興味が無いだろうと思っていたからでさ。が、今、冷静に考えてみると、ケンちゃんはオレに対して興味が無かったわけではなく、その興味の出し方があまりにも下手クソで、どうしていいかわからなかったんだと思う。ところが、オレが本を出すようになり、その流れの中で写真を撮ったり、サイン会をしたり、撮影をしたりすることが出てくると、彼は元来のお調子者気質を武器にそういうイベントを通してオレとつながりを持とうと思ったのである。
 てか、何でこんなことを書いてるかと言うとね。これは去年の暮れに弟のセージに教えてもらったのだが、ケンちゃんが老人ホームに入っていた時、セージと嫁のミカが面会に行くと、ケンちゃんは殆ど呂律が回らないにもかかわらず、「宏ー(オレ)は、どうした」と何回も聞いてきて、セージはマメに面会に来てるのは自分なのに兄のオレのことばかり尋ねるから面白くなかったという。つーか、セージ。そういうことは、もっと早く教えなさいよっ。オレの耳に入れるのが8年遅いっつーの!! 

 ま、ということで、オレも息子に対しては殆ど興味が無いフリをしてるんだけど、ケンちゃんに習って、うるさがられても少しは気になることで絡んでいこうと思います。つーことで、今回は以上です、編集長!

 

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