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ゲッツ板谷のスケルトン忠臣蔵

ありがとう、黒澤さん

 2018年11月30日。「セントラル・アーツ」の社長、黒澤満さんが亡くなった。85歳だった。
 黒澤さんを最もわかり易く紹介すると、あの松田優作が主演を務めた映画『最も危険な遊戯』『蘇える金狼』『野獣死すべし』などのプロデューサーだった人だ。そして、これは付録だが、オレが原作を書いた『ワルボロ』『ズタボロ』が映画化される際にもプロデューサーになってくれたのが黒澤さんだった。
 黒澤さんは1933年生まれ。1955年に日活に入社し、1971年に日活がロマンポルノ路線へと転換した以降、その企画制作の中核として多くのロマンポルノ作品をプロデュースする。1977年に日活を退社後、今度は東映芸能ビデオに入社。同年に東映が新たに立ち上げた東映セントラルフィルム(その製作部門が後の黒澤さんが社長を務める「セントラル・アーツ」に発展)に招聘されて、その第1回作品「最も危険な遊戯」が話題となり、以後、数多くの映画やTV作品をプロデュースし続けたのである。

 ま、要は東映に引き抜かれた黒澤さんは、東映の映画部門の中で兄弟会社「セントラル・アーツ」の社長に就任したことから察しても、モノ凄くヤリ手な人だったのだ。どのくらいヤリ手かと言うと、東映に入ってからだけでも映画部門では松田優作作品以外にも「ビー・バップ・ハイスクール」シリーズなど全142作品のプロデュース。Vシネマも113作品のプロデュース。単発TVドラマは35本。そして、連続テレビドラマも「探偵物語」「プロハンター」「あぶない刑事」など計142作品のプロデュースを手掛けているのだ。
 ちなみに、黒澤さんの直属の部下であり「ワルボロ」「ズタボロ」のディレクターだった菅谷さんの話によると、単行本の「ワルボロ」を読んで面白いと思った菅谷さんが、映画化を考えてその本を黒澤さんにも読んでもらおうとしたが、その頃には既に70代の半ばになっていた黒澤さんが500ページもあるヤンキーもののブ厚い本など読むだろうかとも思ったが、一応ダメ元で渡したら翌日に黒澤さんに呼びつけられ、「お前、この作品の映画化権はとったのかっ?」と訊かれたという。そう、黒澤さんは1日で「ワルボロ」を読み、そして、映画にしようと即断したのだ。

 黒澤さんに最初に会った時、オレは松田優作の限定ジッポライターをいきなりもらった。そして、それからオレが銀座にある東映映画部の本社に行く度に、黒澤さんは熱心に俺の話し相手になってくれた。オレは本来、自分よりも年上の人と話すのがあまり得意じゃない。が、自分よりも30歳以上年の離れた、自分の父親より年上の人と何でそんなに離すことがあったのかと言うと、理由は3つあった。
 1つは、「セントラル・アーツ」が製作した『プロハンター』というTVドラマ。オレは昔、そのドラマが超好きで、特に主演の1人を張っていた藤竜也の大ファンだった。ジーパンの上には黄色いスウィングトップ。頭髪には薄っすらとポマードが塗られ、上半身は適度な筋肉に包まれていた。そして、そんな藤竜也とドラマの舞台となっていた横浜の街を、まるで恋する女子高生のような気持ちで毎回観ていたのだ。と、そのドラマが収録されたDVDセットを1本だけ持っていた黒澤さんは、それを菅谷さんにダビングさせてオレにくれたのである。その上で、黒澤さんは「プロハンター」を製作していた当時の話(20年以上前)を色々聞かせてくれ、オレは目を輝かせながらその話に聞き入っていたのだ。

 もう1つの理由は、オレが20年ぐらい前に所属していた会社について。このことをハッキリ書くのは初めてのことだが、オレがまだ物書きになる前、半年間だけあるライター集団に在籍していたことがあるのだが、その会社の中心的なメンバーの1人が映画「蘇える金狼」の脚本を書いた永原秀一という人だった。当時オレは、その会社の電話番もしていたが、黒澤さんに頼まれて「野獣死すべし」「友よ、静かに瞑れ」「探偵物語」などのたくさんの脚本を書いていた丸山昇一さんや、映画監督の村山透さん、崔洋一さんからも時々連絡が入り、オレは少しドキドキしながら、その電話を永原さんなどに取り次いでいた。
 が、蓋を開けてみると、この永原さんを含めた会社の中心的人物らは基本的には真っ昼間から酒を飲んでいるだけで、若い奴らに色々仕事をやらせて自分たちは上手く儲けようとしてた感があったので、当時は今より10倍ぐらい生意気だったオレは、最後にそんな永原さんたちを怒鳴りつけて、その会社を辞めたのである。今考えてみると、あの時にホントは永原さん自身が最も黒澤さんから仕事が貰いたかったのだ。が、それが思い通りにはいかず、それでお酒に溺れていったのだと思う。で、その時の話を思い切って黒澤さんにしたところ、「ああ、あの永原とかは、みんな酒の飲み過ぎで死んじゃいましたよ」という答えが返ってきた。不思議な気分だった。あれから20年以上経って、今度は黒澤さんと自分が、こうして直接繋がっているのである。オレは黒澤さんに会う度に、あの時には誰々さんからの電話をよく取り次ぎましたといった話をし、そうすると黒澤さんも懐かしそうな表情で、その人のことを丁寧に教えてくれたのだ。

 で、オレと黒澤さんの会話が弾んだ最後の理由が、八王子市にある「ふたばや」といううどん屋だった。そのうどん屋については、このコラムでも散々書いてきたが、驚いたことに、その「ふたばや」と黒澤さんの実家が僅か300メートルしか離れていなかったのである。にもかかわらず黒澤さんは「ふたばや」を知らなかったのだ。もうオレとしたら、それは大事件で、オレは「ふたばや」のうどんがいかに旨いかということを菅谷さんと共に黒澤さんにアピールした。で、もちろん、大のうどん好きの黒澤さんも「ふたばや」のうどんに興味を持ったようだが、黒澤さんはいつも自分の車を運転して朝8時には八王子の自宅を出て銀座に向かうのである。よって、黒澤さんの家がいかに「ふたばや」に近かろうと、「ふたばや」は平日の昼11時~2時までの3時間しか営業してないため、寄ることが出来ないのである。
 身も心も「ふたばや」のとりこになっているオレと菅谷さんは、そのことにいつも如何ともし難いイラつきを感じていたが、そうこうしてるうちに黒澤さんが「先週の土曜日にそのうどん屋に行ってみたんだけど、どこだかわからないんですよねぇ~」と言ってきて、オレは黒澤さんの家から「ふたばや」までの超詳しい地図を書いて渡した。そして、それでもわからなかったら自分の家に電話して下さい。15分で飛んで行きますので!という釘まで刺した。
 数ヶ月後、東映に行く用事があり、それが済んだ後に「セントラル・アーツ」の事務所に顔を出すと、黒澤さんがいて「ああ、この前、遂にふたばやに行きましたよ」と言う。で、「ええっ、で、どっ……どうでしたぁ!?」と訊いたところ、その土曜日は店の外にも何十メートルという行列が出来ていたんで帰ってきちゃったとのこと。うぐぅわあああああ~~~っ!!
 で、さらに数ヵ月後。「ふたばや」のうどんには、超常連客に対してだけテイクアウトがあるらしいという情報を聞きつけたオレは、それを菅谷さんに話すと「じゃあ、来週にでもソレを買って黒澤さんのところに持っていきましょう!」という流れになったが、その直後に黒澤さんは脳梗塞を患って摂食嚥下障害になってしまい、早い話がうどんを飲み込めなくなってしまったのである。おい……………。

 それから約1年後。黒澤さんは肺炎で亡くなった。黒澤さんの葬儀には、松田優作の大ファンで、「ズタボロ」にもエキストラで出演してくれた後輩のシンヤくんを誘って参列することにした。青山墓地の中にある青山葬儀所。黒澤さんの家族と東映の合同告別式はソコで開かれることになった。
 会場に着くと、オレは東映側の前から3列目の席に案内され、1列目を見ると東映の社長、脚本家の丸山昇一さん、「ワルボロ」にも出演してくれた仲村トオルくん、同じく「ワルボロ」で初主演を務めてくれた、松田優作さん次男の松田翔太くんらが座っていた。
 最初に東映側のあいさつをしたのは、黒澤さんとはホントに長い付き合いだった丸山昇一さんだった。丸山さんは最初の方は淡々と話していたが、後半になると泣き崩れるといった感じで、人間というのはホントに自分にとって必要な人物を失うとこうなるんだな、という見本のようなあいさつだった。
 続いて挨拶に立ったのは仲村トオルくんだった。彼は映画「ビー・バップ・ハイスクール」のオーディションで黒澤さんに直接選ばれた時からの仲らしく、最初から最後まで泣き続けながらもシッカリとした言葉を喋っていた。その話の中で、黒澤さんが亡くなる数ヶ月前に2人で喋っていたら、まず俺の具合が少し良くなったら、うどんを食べに行こうやと言われたらしい。オレは、それを聞いて一気にグッと来た。そう、そのうどんというのは、まず間違いなく「ふたばや」のうどんで、黒澤さんは自身の具合が良くなったら、オレが勧めまくった、あの「ふたばや」の肉入りタヌキうどんを食べようと思っていたのだ……。
 何とか泣くのを堪えて休憩時間にトイレに行くと、2つある小便器の前に人が並んでおり、オレの真ん前に並んでいたのがナント、あの藤竜也さんだった。そして、オレと藤さんは、ほぼ同時に左右の便器の前で小便をしたのであった。


 黒澤さん、最後の最後まで素敵なプレゼントをありがとうございました。……ゆっくり休んで下さい。

 

1.大の仲良しだった松田優作さんと。

2.自分の子供のように面倒を見た仲村トオルさんと。

3.基本的には優しい人だったが、こと仕事には非常に厳しい面もあった。

(写真はすべて黒澤満氏の葬儀用パンフレットから抜粋)

 

 

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著者略歴

  1. 板谷宏一

    1964年東京生まれ。10代の頃は暴走族やヤクザの予備軍として大忙し。その後、紆余曲折を経てフリーライターに。著書は「板谷バカ三代」「ワルボロ」「妄想シャーマンタンク」など多数。2006年に脳出血を患うも、その後、奇跡的に復帰。現在の趣味は、飼い犬を時々泣きながら怒ることと、女の鼻の穴を舐め ること。近親者には「あの脳出血の時に死ねばよかったのに」とよく言われます。

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